c法の支配• しかしこのような認識のもとでは超越的なものの存在は決して体験できず、物の領分と心の領分は交わらず互いに閉鎖的なものとなってしまい、それゆえにこういった超越的なものを存在者として認識の対象とみなすことそのものが無意味になってしまう。
『ヘーゲルの精神現象学』、1996年。
共産党と知識人の関係などでも、 多数の不幸な例(スターリン信仰や文化大革命、連合赤軍の粛正事件など)を 出してきた。
私が『精神現象学』を読み始めたのは、およそ十年前に遡ることができる。 この過程が「精神現象学」である。 「ああ、弁証法というのはこういうものか」と感激しましたが、正直いうとちょっと煙に巻かれて誤魔化されているような気分でした。
13だから、私は樫山の本をかたわらに置きながら、訳文を比較対照しながら読みました。
法則がそれ自体概念である以上、意識のもつ 理性本能は、知らず知らずのうちに、法則とその要素を概念として純化する方向へとむかわざるをえない。
たとえば解剖学とは、生命を欠いて現にある存在という側面から考察された、身体のさまざまな部分にかんする知識といったものである。
5さて、今度は私の番である。
物については、白く もあり、立方体で もあり、辛く もある、ということができる。
フランスにおいて現象学を展開したのはサルトルとメルロ・ポンティである。 次第にフッサールとミュンヘン学派は思想的相違から懸隔を生じさせ、1916年にフッサールがへ移る頃には、その対立は決定的になっていた。 プラトンとヘーゲルの大きな違いは、神様しか持ち得ない超自然的な概念を、人間のもとに取り戻し、そして自ら拡大する精神を持つと考えたことです。
5たとえば講談社現代新書から出ている竹田青嗣らの『超解読!はじめてのヘーゲル「精神現象学」』のような本。
客観的な世界がある、とする私たちの素朴な態度をいったん停止して、そのような妥当が生じる条件や理由を自分の意識の内側に探っていくのである。
立松 2009:153• これに対してノエマは志向的体験の実的ではない構成要素ということができ、ノエマ的意味という意味化された対象の規定の契機を持ち、このノエマ的意味という内実に、対象がいかにあるかという作用的な存在性格の様相すなわちノエマにおけるノエシス的契機をふくむことによって、充実したノエマあるいはまったきノエマとなる。 の3段階を示す。 そもそも、ヘーゲル自身はどうだったのか。
「解剖学とは、生命を欠いて現にある存在という側面から考察された、身体のさまざまな部分にかんする知識といったものである」とヘーゲルはいう。
しかし、このような態度の変更は原理的に可能であるのか、という問いがここで生じてくる。
難解をもって知られ、多くの哲学者に影響を与えた。 『知覚の現象学』はゲシュタルト心理学を批判的に乗り越えることによって、生きられた世界、知覚の主体としての身体を現象学的に分析している。
20現象という概念は、ここでは基礎に対してあるが、自然主義的現象はなるほど深い物ではあるが、論理的・理性的に把握できるような真理が奥底に横たわっているということは絶対にありえない。
普遍的な構造や条件を取り出し記述することを現象学では「本質観取」という。
つまり、神様が作った、固定的な世界ではなく、人間が自らの手によって作り替え、歴史を作っていくものだと捉えたわけです。 拙速な解釈に対して慎重になることが全ての理論に共通で、理論が完全になることを望まず、むしろ他の経験の自立性が配慮されるとともに徐々に具体的になっていく日常の経験的領域が結合していくようである。
13新田 1995:112• 治療の理論における現象学的態度 [ ] 、、あるいはといった人の治療の理論において、現象学はしばしば認識論の道具として表面に乗り出している。
そうしたさまざまな性質を一つにまとめるには意識の働きによるほかなく、それらが物のもとで一つになることは期待できない。